伝説的な大相撲力士、大鵬幸喜(納谷幸喜)の運命は、最初から過酷だった。困難な時代であった1940年にウクライナ人の父、マルキャン・ボリシコ(ハルキフ州出身)と日本人の母、納谷キヨの間に生まれ、イヴァーンと幸喜と名付けられた。1945年のソ連による樺太侵攻後、父親が逮捕され母親は子供と一緒に北海道へ逃亡。5歳のイヴァーン・ボリシコは納谷幸喜となり、それ以来父親と二度と会うことはなかった。
豆類を市場で売っていた母を手伝い、16歳のころ相撲の練習に招待された。1961年にわずか21歳で歴史上一番若い横綱となった。彼のスポーツ人生において、天皇賜杯で32回優勝し、現在でも数多い若いアスリートのため勤勉、精進と決意の師表となっている。
1971年に相撲を引退し、大鵬部屋を創設。その6年後、脳梗塞で体の左側が麻痺し、不死鳥のように回復できたが、元の力が戻ることはなかった。
晩年の大鵬はウクライナの祖先に興味を持ち、父親は1960年に亡くなったが、2002年大鵬はウクライナを訪問した。ハルキフ州の村で親の家を撮影し、井戸から水を引き、祖先地の土も持って帰った。また、ハルキフ市で相撲の愛好家グループが開催した相撲大会を訪れた。その大会は大鵬幸喜の承諾を得て「大鵬幸喜大会」と名付けられた。大鵬幸喜大会はその後も毎年開催されている。2011年にウクライナのメリット勲章3位を受章した。当年オデサ市の中央で、このウクライナ系の有名横綱の銅像が除幕される。