カームヤネツィ=ポジーリシクィイという町でユダヤ人の洋品店主の大家族に生まれた。レイバと名付けられ、天才音楽家レオ・シロタになることが彼の運命だった。11歳にして自分よりもずっと年上の生徒を指導し、コンサートツアーで演奏し、14歳でキエフ・オペラの主席コンサートマスターとなった。
その後、サンクトペテルブルクで学び、ウィーンでフェルッチョ・ブゾーニのもと音楽学校で学びながら大学で法学部と哲学学部に在学していた。ピアニストとしてのデビューはウィーンでブゾーニとモーツァルト2台のピアノのためのソナタを演奏した。コンサートは大成功を収め、16 回アンコールがかかった。その後、S.クセヴィツキーのオーケストラと、ヨーロッパ各国へ大規模な演奏旅行に行き大きな成功を収めた。
1928年、作曲家の山田耕筰から日本での演奏旅行に招待され、1年間の演奏旅行が終わる際、上野帝国アカデミーのピアノ部門の部長職を得た。家族は日本で18年暮らし、著名な音楽教師となり、ソロコンサートを開催した。
太平洋戦争が始まると、シロタは職を追われ、山村の郊外にある狭い家に軟禁された。シロタの生徒が秘密裏に食品、水、薪を差し入れたため、夫婦は飢え死にを逃れることができた。戦後、日本政府はシロタに公式に謝罪し、音楽教師、演奏家としての復帰を申し入れた。しかし、シロタはその招待を辞退し、アメリカへ居を移した。
シロタが熱烈に愛し、冷酷な扱いを受けた日本から彼は永久に離れたように思われたが、亡くなる前年にシロタはもう一度日本を訪れた。この最後の演奏旅行の際、毎回大きな拍手や熱狂的な歓声が沸き起こり、多くのファンや生徒たちが感動に涙したと言われている。